頭痛を治すためのカウンセリングで安倍晴明がしたことは?

日本人の3人4人に1人は頭痛に悩んでいて、仕事の能率や生活の質、人間関係などが大きく損なわれていると言われています。もしかするとあなたも偏頭痛や緊張性頭痛などに悩まされて、このページに来られたのかもしれません。

日本頭痛学会のサイトを見ると「4人に1人」とありました。訂正。

病院で検査してもはっきり原因がわからなかったり、あるいは「ストレス」との関連を指摘されたのだけど、ではどうすればこの頭痛が治るのだろうと困っている人は意外と多くいるのです。

今日は、「頭痛とストレス」について、少し変わった視点から書いてみます。

言葉と呪

まずは「呪い」の話からです。

「頭痛と呪いがどんな関係があるのか」「怪しい話じゃないか」と思われるかもしれませんが、少しだけおつきあいください。

岡野玲子さんの漫画『陰陽師』に、安倍晴明が源博雅に次のように問いかける場面があります(第1巻)。

陰陽師 (1) (Jets comics)

「なあ博雅 この世で1番短い呪(しゅ)とは何だろうな」

清明は「それは名だよ」と自答します。

博雅は「おまえの清明とか、おれの博雅とかの名か?」と尋ね返します。

清明はこう答えます。

「そう。山とか海とか樹とか草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするに、ものを縛ることよ。ものの根本的な在様(ありよう)を縛るというのは名だぞ。たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは清明という呪をかけられている人ということになる」

「名」とは、「言葉」と言い換えてもよいでしょう。

私たちは、名=言葉によって、縛られて生きています。

「私はうつ病だ」「人見知りする性格だ」「私はカウンセラーなんだから、こんなことをしちゃダメだ」といった言葉もまた、私たちを縛る呪なのです。

白川静先生は、『漢字の世界』で、「祝」は神霊に対する祈りであり、「呪」は自分や他者に対する欲求の方法だと書いていました。

親がつけた名前には、子供への期待や願い、あるいは欲求がこめられているのでしょう。

「どうせ僕は何をやってもダメな人間だ」「何をしても失敗するだろう」「男は(あるいは女は)こうあるべきだ」

といった自分を呪うような言葉も、私たちの期待や欲求の表れなんです。

「ダメ人間になりたいなんて願ってないよ」

と言うかもしれません。

でも「ダメな人間だ」という「呪」は、「きちんとやれる人間になりたい(ならなきゃいけない)」「立派な人間になりたい」といった期待の裏返しです。

認知行動療法で言うところの「中核信念(コア・ビリーフ)」や「スキーマ」(自分や他者、世界に対する価値観にもとづく認知)なども、清明が「呪」という言葉で表現しようとしたものと同じことを指しているのだと思います。

昨日買ったばかりの『マインドフルネス&スキーマ療法』(伊藤絵美、医学書院)という本をぱらぱらめくってみると、「見捨てられスキーマ」「愛されないスキーマ」「失敗スキーマ」「自己犠牲スキーマ」「否定・悲観スキーマ」といったスキーマが取り上げられていました。こうしたスキーマはどれも、強い「呪」として人間を縛るでしょう。

安倍晴明が行った頭痛のカウンセリング

安倍晴明

安倍晴明にこんなエピソードが伝えられています(『古事談』巻六の六四)。

時の帝であった花山(かざん)天皇が酷い頭痛に悩まされていました。花山天皇は、17歳で即位した若い帝でした。後ろ盾であった摂政が亡くなったこともあり、2年足らずの短い在位でした。藤原氏の謀略のために、騙されて出家したのです。想像するに、在位中は政敵に囲まれて大きなストレスを抱えていたのではないでしょうか? そもそも、若くして帝としての務めを担うこと自体が大変なことです。そうしたストレスが、頭痛にも影響していたと考えられるのです。

花山天皇は、特に雨の日には特に激しい頭痛に悩まされていました。冷やしたり薬を飲んだりの数々の治療や、あるいはお祓いなどを試しても、頭痛はちっともよくなりません。

そこで陰陽師の清明が呼ばれたというわけです。

清明は陰陽道を使って見立てを行います。今風に言うなら、「アセスメント」をしたということですね。清明は次のように話しました。

帝の前世は尊い行者だったのです。前世の髑髏(ドクロ)が大峰の山中の岩の間に落ちて挟まっているので、雨の日には岩がふくらんで圧迫する。頭痛はそのせいなのです。髑髏を岩の間から取り出せば頭痛はきっと治るでしょう。

清明の伝えた場所に家臣が尋ねると、確かにそこには髑髏がはさまれていました。そして、髑髏を取り出して祀ると、花山天皇の頭痛はぴたりと収まったのです。

さて、ここで清明がしたことは、いったいなんだったんでしょう?

もしかすると、本当に陰陽道で花山天皇の前世が見えたのかもしれません。それとも、たまたま山中の岩に髑髏がはさまっているのを知っていて、それを使って介入したのかもしれません。意地悪な見方をすれば、清明が前もって髑髏を隠しておくことだってできたはずです。

事の真相を確かめることは今となっては不可能でしょう。でも、清明が帝に伝えたストーリーが、どのような効果を与えたかということは考察できそうです。

上にも書いたように、即位した花山天皇は、藤原氏の政治的な圧力に、「いつ帝の座を追われるか」と大きなストレスを感じていたと思われます。

こうした状況は、同時代を生きた清明にも見えていたことでしょう。

おそらく清明が介入しようとしたのは、頭痛そのものではなく、花山天皇にストレスを与えていたこうした状況や文脈なのです。

「前世は尊い行者だった」

というストーリーは、花山天皇に「今とは違う人生もあったし、ありうる」ということを伝えています。つまり、清明の語るストーリーによって、「帝であり続けなくてはならない」「帝としてこう生きねばならない」といった「呪」がほどけたのです。

あるいは、花山天皇はもともと、「帝なんて辞めたい。生前退位したい」と思っていたのかもしれません。それを察した清明が、「それもありですよ」と送ったメタ・メッセージが先のストーリーだったとも考えられます。

この話との前後関係は分かりませんが、花山天皇は在位中に最愛の妃を亡くしており、この世をはかなんで出家したいと考えていたとも伝えられています。

清明の行ったことは、こうした文脈にフィットする介入でした。

だからこそ、「髑髏を取り除けば頭痛も消えるだろう」という言葉が響き、実際に頭痛が治ったのです。

文脈と外在化

現代のカウンセラーが、「あなたの頭痛は実は髑髏がね」とか「お子さんが学校に行けないのは前世が影響してて」なんて言い出したら、受け入れられにくいでしょう。

前世療法とかスピリチュアル・カウンセリングというのもあって、それらがフィットする人もいるでしょうが、あまり一般的とは言えません。

それは、安倍晴明が生きた時代と現代とでは、文化的・社会的な文脈が異なるからです。

精神科医アンリ・エレンベルガ―は、『無意識の発見』という著作で、シャーマンや呪術医が、現代のカウンセラーや精神科医の遠い先祖だと書きました。そうするときっと、陰陽師も親戚みたいなものですね。

だから、陰陽師とカウンセラーは文化的な文脈は違うけれども、似たようなことをしているのだと考えられるのです(もちろん違いもありますが、話の流れ上、類似点を強調してみます)。

たとえば家族療法を使うカウンセラーが、おねしょを主訴に来談した子供とその親に対して「おねしょの虫退治を家族でするように」と提案することがあります。子供と親がいっしょになって、画用紙に描いた「おねしょの虫」を毎晩退治するわけです。これは、「おねしょをする問題のある子」というもともとあった文脈を、子供がより自己肯定感をもって対処できるように介入していることになります。

ナラティブ・セラピーで言われる「外在化」も、問題を自分や誰か(上のおねしょの例では「子供」)に属するものととらえるのではなく、自分と問題を切り離して「外」に置く方法です。

ナラティブ・セラピーでは、「外在化」という方法がよく用いられます。 問題を自分に属するものごととして捉えていると(内在化していると)、「学校に行けない私はダメな私」「うつの自分には価値がない」といった物語になってしまいます。余計に落ち込んで、うまくいかなくなることの方が多そうです。 逆に、その人自身が「問題」だとするのではなく、外にある「問題」とそれに悩まされる人、というように、当事者のアイデンティティと問題を切り離すというアプローチが「外在化」です。

箱庭療法でいろいろな玩具を砂箱に置いてみるのも、同じように自分の「外」に何かを置いてみるということです。

さまざまな心理療法の技法のなかには、「壺をイメージする」とか「三角形をイメージする」なんていう、一見、「悩みとなんの関係があるんだ」と思われるようなやり方があります。

もちろん、相談される方のもっている文脈に合わない方法は受け入れられないでしょうが、適切に用いられるとなかなかの効果をもたらします。

このような介入を通じて、「どうせ失敗する」「こうすべきだ、あるべきだ」といった「呪」がゆるむのです。

頭痛などの身体症状とカウンセリング

話があちこちに飛んでしまいました。

あらためて、「頭痛のカウンセリング」について少しだけ。

もちろん、身体的な要因が大きい頭痛もたくさんありますので、まずは病院で適切な処置を受けることが大事でしょう。

「もしかするとストレスや悩みが、私の頭痛に影響しているのかもしれない」

と感じたときには、カウンセリングがお役に立てることもあると思われます。

原因がよく分からない頭痛やその他の身体症状は、ストレスやうまく表現できていない感情に由来することもあるからです。

心理的・精神的なことが原因で身体症状が現れる病気を「心身症」と言います。「嫌だ」とか「したくない」といった自分の気持ちに蓋をして、一人でいろいろな問題を背負っている人が、心身症となりやすいのです。

感情を言葉にすることが苦手な思春期の人が、原因の見当たらない頭痛やめまい、腹痛などで学校に行けなくなることもあります。不登校の生徒によく見られる症状です。

カウンセリングで感情を少しずつ言葉にしていったり、あるいは描画や箱庭などで表現していくことで、こうした症状も軽減していくのです。

また、「この頭痛は私に何を伝えようとしているのかな」「頭痛がしゃべるとしたら、なんて言っているのかな」と身体の声に耳を傾けてみると、「ああそうだったのか」と気づくこともあります。「頭痛さん」を目の前のクッションに置いてみて少し対話してみるという方法もあるのです(これも外在化の一種と言えますね。ゲシュタルト療法の「エンプティ・チェア」という手法です)。

 

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