思春期と「めんどくさい」
「なんで勉強しないの!」
「めんどくさいし」
「早く学校行きなさい!」
「めんどい・・・」
「なんでそんな態度とるのか、ちゃんと言いなさい」
「めんどくさー」
なんていう会話は、思春期の子供のいる家では、あるいは毎日のように交わされているかもしれません。
「なんで中学生はめんどくさい、面倒だとばっかり言うんでしょう?」
といったことが話題になったので、「めんどくさい」について少し考えてみようと思います。
「めんどくさい」【面倒くさい】
ということばは、辞書を引くと、「物事をこなすのが大変だ。面倒だ。やっかいだ」といった意味を表しています。「〜くさい」は「っぽい」とか「〜らしい」といったニュアンスを表す強調のことばですね。
「面倒」とは、「煩わしい」といった意味のようですが、なんで「面が倒れる」んでしょう。
「面倒」の語源をさかのぼると、「愛でる(めでる)」という何かをほめたり、感心するときにつかうことばに由来しているという説と、「めったい」「めってい」「めんたい」などの「ありがとう」という意味の方言(幼児ことば)に由来しているという説があるそうです。
「面倒」がもともとは、「愛でる」「感謝する」という意味だったというのは、なんだか意外ですね。
思春期の子供から「めんどくさいしー」なんて言われたときに、「ありがとう」とか「好ましい」と脳内で翻訳したら、ちょっとは「まあいいか」と思えるのでしょうか。
でもなんでまた「ありがとう」「好ましい」が、いわゆる「めんどくさい」という意味に転じたのでしょうね?
どうやら、誰かに(何かに)感謝の気持ちを抱いたときの、なんとなく恥ずかしいし、わざわざことばにするのも決まりが悪いなあといった複雑な感覚とつながっているみたいです。
なんて考えると、中学生のお決まりの「めんどくさい」も、「嫌というわけじゃないんだけど、でもわずらわしいところもあるし、うまくことばに言えないし」といった複雑な感情や感覚を「とりあえず表現しておく」ことばなのかもしれません。
「面倒をみる」とは、人の世話をするといった意味合いでもありますが、人間関係をもつこと自体が、いろんな複雑な感情を刺激するのですね。中学生の年齢は、面倒をみたりみられたりといった人間関係を意識しだす時期です。親やきょうだいとの関係も、中学生なりに気を使ったり、我慢や無理をしているんでしょう。
また、中学生も後半になるとよくも悪くも「どうせがんばったってこんなもんだし」とか「自分はこれくらい」なんてふうに、自己を客観視できるようになってくるから、「めんどくさい」と感じることもあるようです。
いわゆる「中2病」の時期は「俺はなんだってできるぜ!」と前向きですが、だんだん現実が見えてきて、「どうせ・・・」「やっぱり無理」と思うと、「何もかもめんどくさい」と投げ出したくなるのかもしれません。
だからいろんなことに「面倒くさい」と感じるのも、無邪気な子供時代からややこしい人間関係を意識するくらいに成長してきた印、と思っておくのがいいのかなと思います。思春期という時期はどうやってもことばが追いつけないくらいいろんな変化が生じるときで、複雑でどんどん変わるフェルトセンスをぴったりと言い表せないから「めんどくさい」のですね。
それに「半分子供、半分大人」のときでもあり、「自分の人生に責任をもつように」というプレッシャーも感じると、やはり「めんどくさい」と思うのも仕方ない気もします。
もう一つ「めんどくさい」の理由として思い当たるのは、「個」としての自分がだんだんはっきりしてくると、「親にも友達にもきっと伝えられないだろうな」という内面ができてくるということも関係しているのだと思います。