「わたし」と「熊」の境界が溶けた日——『熊になったわたし』

ひとつ、不思議な本をご紹介したいと思います。

『熊になったわたし——人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる』(ナスターシャ・マルタン著、高野優訳、紀伊國屋書店)。フランスで11万部のベストセラーとなり、18か国で翻訳されたノンフィクションです。

出来事そのものより、熊との格闘後、著者が何を感じ取り、どう変化していったのか——内面への軌跡が本書の中心となっています。

読み始めてすぐ気づくのは、これが単なる「熊に襲われた体験記」ではないということです。この本は、「わたしとは何か」「世界とはどこまで続いているのか」という、もっと根源的な問いを静かに、しかし強く突きつけてきます。

何が起きたのか

著者のナスターシャ・マルタンは1986年生まれのフランスの人類学者。フィリップ・デスコーラの指導のもとパリの社会科学高等研究院で博士号を取得し、アラスカとカムチャツカの先住民族を研究対象としてきた研究者です。

彼女はカムチャツカの先住民エヴェンの調査中に熊と遭遇し、視線を交わして格闘、顎の一部と2本の歯を奪われながらも生還しました。

ここまで書くと「恐ろしいサバイバル体験談」のように聞こえるかもしれません。でも、本書の核心はそこではありません。

彼女が生還したあとに直面したのは、もっと不可思議で、もっと内側に向かう問いでした。——「あの出会いのあと、わたしはいったい何者になったのか?」

「ミエトゥカ」という概念

シベリアの先住民族エヴェンの言葉で「ミエトゥカ」とは「熊に印をつけられた者」のこと。熊と出会って生き延びた者は、半分人間で半分熊であると考えられています。

熊と対峙し、生きて戻ってきたナスターシャに、エヴェンの人々はこう伝えます。

「熊は君を殺したかったわけじゃない。印をつけたかったんだよ。今、君はミエトゥカ、二つの世界の間で生きる者になったんだ」

この言葉を、現代の私たちはどう受け取ればいいのでしょうか。「迷信だ」「比喩的表現だ」と退けることはできます。でもこの本を読んでいると、そう片付けることに少し躊躇いを覚えるようになっていきます。

境界が溶ける、ということ

心理相談室のブログらしく、ここから少し「心」の話をさせてください。

私たちは普段、「わたし」と「世界」の間に、はっきりとした境界線があると思って生きています。皮膚がその境界であり、意識がその境界であり、名前がその境界です。「わたしはわたしであり、熊は熊だ」——それが当たり前の前提です。

でも、ナスターシャが体験したのは、その境界が溶けていく体験でした。

本のなかで彼女はこう書いています。

「あの瞬間、私たちの体は確かに混ざりあっていたのだ。あの時、私の中には、説明も理解もできない私たち──熊と私がいたのだ」

これは「狂気」なのでしょうか。実際、本の中で彼女自身がその問いを正面から引き受けています。西洋の精神医学は、この体験を「自己と外の世界の境界が壊れた状態」と分類するかもしれない。でも、エヴェンの人々の世界観では、それはまったく別の意味を持つ。彼女はその二つの枠組みの間に立ち、どちらでも説明しきれない何かを抱えながら、文章を書き続けます。

アニミズムという「世界の見方」

ここで、エヴェンの人々の世界観について少し触れておきたいと思います。

本のなかで、エヴェンの長老クラレンスはこう語ります。

「木々にせよ動物にせよ川にせよ、世界を構成するすべてのものは、人々が何をしたか、何を言ったか、そして時には何を夢に見て、何を考えているのかまで覚えている」

これが「アニミズム」と呼ばれる世界観の核心です。人間だけが意識を持ち、世界の中心にいるのではない。岩も、川も、熊も、それぞれの視点で世界を見ており、互いに関係し合っている——そういう宇宙観です。

著者の師でもある人類学者フィリップ・デスコーラは「アニミズム」という概念を現代人類学に復権させた人物として知られています。デスコーラ流に言えば、アニミズムとは「すべての存在が内面(魂・意図・視点)を持ち、たえず全体が見渡され、いたるところですべてが共有される」世界観です。

「人間と自然」「主体と客体」「わたしとそれ以外」——こうした二項対立を当然のこととして積み上げてきた近代西洋の思考とは、根本から異なる世界の捉え方です。

ナスターシャは長年この世界観を「研究対象」として外から眺めてきた研究者でした。それが、熊との遭遇を境に、「内側から体験する者」へと変わっていきます。

「単一の自己」というまやかし

ナスターシャが本の中で書いている、ある一節が忘れられません。

「熊と出会う前と同様に、これからの私も決して単一ではない。私という、あるひとつの固有の形態を持っていたとしても、私を構成する要素はすべて外から来たものだからだ。単一性とは魅力のある概念だが、それはまやかしにすぎない」

これは、心理学の世界でも近年ますます注目されている視点と重なります。「自己」とは固定した実体ではなく、他者との関係の中で、また歴史の流れの中で、絶えず変化し続けるプロセスである——という見方です。

私たちは「ゆるぎないわたし」を持ちたいと思います。でも実は、「わたし」とはそもそも多孔質で、開かれていて、外からやってくるさまざまなものによって絶えず作り直されているのかもしれない。

ナスターシャにとって、熊との遭遇はその「開かれ」を極限まで体験した出来事でした。

「夢の時間」と、現代を生きる私たちへ

エヴェンの人々は、夢に特別な意味を見出します。

「夢を見るためには、移動しなければならない。私も自分の家に長くは留まらない。あなたは自分の家からずいぶん遠くにいる……。たくさんのものが見えるのも不思議ではないわ」

彼らにとって夢は「私的な無意識の産物」ではなく、「世界と通じ合う回路」です。遠くに行くこと、慣れ親しんだものから離れること、そうして初めて、見えないものが見えるようになる。

先日取り上げた「明晰夢」の話とも、どこかでつながる視点ではないでしょうか。夢を「心の探求の場」として捉える現代の心理学と、「世界との対話の場」として夢を語るシベリアの先住民の知恵が、時を超えて響き合っているような気がします。

二つの世界の「狭間」に立つということ

この本を読み終えて、しばらく静かにしていたくなりました。

ナスターシャは最終的に、「病院の世界」にも「熊の森の世界」にも完全には戻れない自分を発見します。彼女は二つの世界の「狭間」に立ち続けることを、自らの場所として引き受けていきます。

それは決して楽な場所ではありません。でも、「どちらでもある」ことの豊かさ、「境界に立つ」ことでしか見えない風景というものが確かにある、とこの本は語っています。

心理療法の場でも、クライアントが「以前の自分」でも「なりたかった自分」でもない、変容の途中にある「まだ定まっていない自分」と向き合う時間があります。その不安定で、どこか宙ぶらりんな感覚——あの感覚に、この本はとても近いものを感じさせます。

「わたし」と「世界」の境界は、思っているよりずっと曖昧で、思っているよりずっと豊かかもしれない。

そのことを、一頭の熊と一人の人類学者が、静かに教えてくれます。

ナスターシャ・マルタン著『熊になったわたし——人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる』(高野優訳、大石侑香解説、紀伊國屋書店、2025年)

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