わかさぎ釣りと夢のおへそ

夢の意味?

ここしばらく、よく夢を見るようになりました。どたばたとしてせわしない12月のあれやこれやがなんとか片付いて(それとも片付いたことにして)、ふと肩の力が抜けたので、夢を覚えておくゆとりができたのかもしれません。

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仕事柄か、人の夢の話を聴くことも多いのですが、「この夢は何を意味しているんでしょう?」と尋ねられて、もごもごと口ごもることもよくあります。書店に並んでいる「夢解釈」の本をぱらぱらめくると「これこれの夢はしかじかを象徴する」といったことがまことしやかに書かれていますが、さてこんなふうに「夢の意味」がはっきりと分かるものなんでしょうか?

 

夢のおへそと未知なこと

無意識を探求する精神分析学を始めたフロイトは、「夢は無意識の王道である」と言いました。そして、夢が象徴する無意識の欲望やトラウマについて、多くのことを書き残しています。人間の心の深層について、たくさんの発見を残した人物であるのは確かなことです。けれどもフロイトは同時に、夢のもつ「分からなさ」も大切にしていました。夢を丁寧に見て、夢見手の連想を広げていくのが夢の分析ですが、フロイトは夢にはどうしても分からない何かが含まれていることに気がついていて、それを「夢のおへそ」と呼びました。不思議な響きのする言葉ですが、そういえばユングも「夢を理解しようとしてはいけない」とどこかで述べていました。どうやら夢のおへそは私たちの心の底の「分からないこと」や「未知なこと」に結びついていそうです。どうやら夢のおへそは私たちの心の底の「分からないこと」や「未知なこと」に結びついていそうです。「おへそ」という言葉からは、「私がこの世に生まれ出るよりも前の出来事の跡」「すでに失われてしまった母親とのつながり」といったことが連想されます。「なぜ、なんのために私は生まれてきたのか」という、自分の存在の根っこを問う大きな(そして答えの出そうもない)謎も浮かんできて、少し戸惑ってしまいます。自分が「ある」っていったい何を根拠にしているんだろう? こんなことばかり考えていてはくたくたになってしまいそうです。日常の生活では私たちはたくさんのことを「割り切って」「分かったことにして」生きています。

わかさぎ釣り

けれども日常生活にはときどきスキマや裂け目が生まれます。あたりまえだと思っていた環境や人間関係が大きく変化したとき、事故や災害などの思わぬ事態に遭遇したとき、あるいは何事もないけれど生活のなかのふとした瞬間にそうしたスキマから「分からないこと」が顔をのぞかせることもあるかもしれません。そんなとき私たちはなんとかいつもの日常に戻りたいと願います。しかし、私たちの足下のそのまた底にある「分からないこと」にしっかり向き合わないことにはものごとが先に動かないこともあります。

カウンセリングに来談された人たちと共に座っているとときどき浮かんでくるイメージがあります。ちょっと妙ですが、二人で並んで「わかさぎ釣り」をしているというイメージです(わかさぎ釣りなんてしたことはないんですけれども)。私たちは、それぞれ足下の氷をコリコリと削って丸い穴をあけて、釣り糸を垂らして静かに待っています。氷の下のことはほとんど分からないけれども、ときどき糸を通して水の動きや魚が触れた感覚が伝わってきます。上手い具合に魚の一匹でも釣れて「そうか、水の底にはこんな魚がいたのか」と驚くこともあります。その魚の形態や表情から、今の自分についてなにがしかの示唆が得られることだってあるかもしれないし、あるいはそんなことはまったくないかもしれません。

人と人が日常的な意識から少し離れて向かい合っていると、夢やふとした空想、なぜか気を惹かれる物や出来事、そんな「よく分からないこと」が穴の底から浮かび上がってくることがあります。そうしたイメージを、お互いに言葉にして相手に伝えてみようとすることもあれば、そうしないこともあります。伝えてみて通じたと感じることもあれば、すれ違うことだってあります。どんなに関わりが深くなっても、「分からないこと」や「伝わらないこと」は残ります。お互いの穴の底が、同じ水につながっているのかどうかも分からないけれど、ときどき共鳴しながら今こうして「あること」の根っこを確かめることができたらと思うのです。

「ある人生」と「する人生」

ル=グゥインのファンタジー小説『ゲド戦記』で、魔法使いのゲドはアレン王子に次のような話をします。若い頃、ゲドは「ある人生」と「する人生」のどちらかを選ばなければならなくなり、私たちの多くと同じように、「マスがハエに飛びつくように」ぱっと「する人生」に飛びついたといいます。

ゲドはアレンに語ります。

「そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間がもてなくなる。ひとつの行動とつぎの行動の間の隙間のような、するということをやめて、ただ、あるという、それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間をね」

機会があれば、皆様と「ある」時間をともにできればと願います。

今年一年、ご縁のあった皆様に、心から感謝いたします。(久)

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