石巻と神戸、二つの震災

5年目の3月11日です。

 

あのころ、かささぎ心理相談室は、ちょうど開室のための準備を進めていました。

屋号を決めて登記をして、部屋のレイアウトを考えたり、箱庭の小道具を整理したりしていたのです。

小さな船で海に乗り出すような感覚で、「はたして沈まずにやっていけるか」などと心配していました。

 

3月11日は、スクールカウンセラーとして勤めていた神戸市内の中学校の卒業式でした。

帰り道に歩いていたら足下がかすかに揺れたのを覚えています。

 

その年の5月に、宮城県の石巻市を訪ねました。

緊急支援のスクールカウンセラーとして、被災地のいくつかの小学校を回ったのです。

3年間は訪ねたのですが、その後は個人的な事情もあって行くことができていません。

限られた日数や時間、行ったからといって何ができたというわけではなく、何もできずにあの光景や人々の体験したことに圧倒されただけでした(それまでスクールカウンセラーがあまりいないところだったので、「カウンセラーってこんな人か」と認識してもらうきっかけくらいにはなったかもしれません)。

 

逆に石巻の先生や子供たち、町の人たちは、遠くから来たわれわれをねぎらってくれました。ある小学生の男の子が「ごめんね、僕は神戸の地震のときには何もしなかったのに、来てくれてありがとう」と言ってくれました。思わず「君、まだ生まれてなかったやろ」と返しましたが、どこかほっとして助けられたように感じました。

 

二度目に石巻を訪れたのは、ちょうど1年目の3月11日でした。

派遣スクールカウンセラーのリーダー役をしていた石巻市出身の臨床心理士の安部さんに案内してもらって町を歩き、慰霊祭で手を合わせました。仮設で営業していたお店で、石巻焼きそばを食べました。素朴な味で、とてもおいしかった。

 

日和山(ひよりやま)という小さな丘を登ると神社があり、そこから町を見下ろすことができます。

海岸沿いには壊れた車やがれきが積み上げられています。

何度目かに訪ねたときには、「震災前」というパネルが設置されていて、現在の風景と比べることができるようになっていました。

 

この日和山は、宮沢賢治が中学の修学旅行でやってきて、初めて海を見た場所だといいます。

 

われらひとしく丘に立ち

青ぐろくしてぶちうてる

あやしきもののひろがりを

東はてなくのぞみけり

そは巨いなる盥(タライ)の水

 

こんな賢治の詩が刻まれた碑が置かれています。

 

石巻はかつてはずいぶん栄えた漁師町で、トラックに山積みにされた魚が曲がり角でぽろぽろ落ちるので、地元の人は「魚は買うもんじゃなくて拾うもんだ」と言うほどだったそうです。漫画家の石ノ森章太郎の出生地なので、今は町中のあちこちに『サイボーグ009』とか『がんばれ!! ロボコン』などの等身大フィギュアが立っています。

 

町にはまだ津波の爪痕があちこちに残っていましたが、町に活気を取り戻そうと頑張って開いていたいくつかの店で夕食を取ることができました。

 

何度か通った和食の店の大将は、小学生のときに石巻でチリ津波(1960年)を体験したのだそうです。その前の週に『冒険王』という漫画雑誌で「津波」というものがあると知ったばかりで、東日本の地震の後もチリ津波のことを思い出してすぐに日和山に登ったのだと話してくれました。粉雪のふる山の上から町が津波にのまれるのを見て、「これはもう店もしめなきゃ」と思ったけれど、学生時代の友人たちがかけつけて泥かきを手伝ってくれたので「引くに引けなくなって」店を再開したのだといいます。

 

天丼も刺身もおいしくて、大将が毎年秘密の場所から採ってくるというきのこがたくさん入ったつみれ汁も絶品でした。

 

石巻のことを書くと、どうしても21年前の神戸のことも思いだします。

 

黒い焼け跡に立っていた真っ赤な郵便ポストだとか、半分壊れたビルに寄り添うクレーン車と夜空の月のコントラストが、やけにきれいに見えたことなどが、プロジェクタで写真を投映したみたいに浮かんできます。

 

神戸から須磨あたりまで電車が不通だったころ、バス停を探していていつのまにか暗闇に迷い込んでしまったことがあります。まわりの家はすべて倒壊していたので、明かりがまったくなかったのです。足下を探るようにして歩いていると、突然、潰れた家の下から電話の呼び出し音が響いて、びっくりして走って逃げたのでした。

 

しばらくして、できたばかりの「こころのケアセンター」で活動することになり、週に何度かは自転車に乗って避難所や仮設住宅を回りました。

どうにも落ちつかなくて、日が沈んでからも何時間も街中を徘徊しては、壊れたビルをのぞきこんだりしていました。被災地を歩いたり、あるいはたくさんの人の体験を聴いて身体に入ってきた何かの置きどころがどうにもわからなくてうろうろしていたように思います。その「何か」の置きどころは、ずいぶん長いあいだわからず、ずっと宙に浮いたような感じでした。

 

何年かして、岡山の古墳の石室に一晩泊まったことがあります。とくに理由があったわけではないのですが、何か夢を見て行かなくてはと感じて、目が覚めてそのまま電車に乗りました。子どものころに暮らした家から少し歩いた池のほとりにある古墳で、大晦日の夕方に電車に3時間乗って、1時間ほど歩いて、たどり着いたころにはもう日が暮れていました。

 

昔はなかった看板が立っていて、このあたりで最も大きな石室をもった前方後円墳である旨が記されています。身をかがめて入り口を潜って、しばらく這っていくと石室がありました。奥行きは歩幅にして10歩くらい、立ち上がると天上の石に頭がつくほどです。蝋燭に火を灯すと、足元には砂が敷いてあって、後世の人が置いたらしい狐の石像が祭られていました。駅前のコンビニで買ったおにぎりも食べてしまって、蝋燭も燃え尽きて真暗になったので、なんでこんな寒いところに来てしまったのか分からないけどもう寝ようと砂の上に横になりました。そうしていると、段々、頭の上の大きな石が落ちてきて押しつぶされてしまうのではないかと不安になってきて、きっとこのまま埋もれてしまうのだと思いました。ここは子どものころに一番恐ろしかった場所だということを、そのときにはじめて思い出しました。逃げようと思ったのですが、身体が凍えて痺れてきて、岩がのしかかってくるように感じて動けないままにじっと横たわっていました。

 

しばらくすると恐ろしさは峠を越えて、今度は骨までしんしんと冷たくなってきます。服の下に虫が何匹か入り込んできました。もう何年もここに埋まっているように感じて、周りにはよく知らない(それともよく知っている)誰かがたくさんいるような気がしてきました。気がつくと石室の入り口から朝日が射してきて、身体が動くようになったので、駅まで歩いて電車に乗って帰りました。

 

二つの震災の後に出会った人たちのことや、街の光景を思い出した一日でした。

 

(久)

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