マインドフルネスと「ある」こと

先日、カウンセリングは体験を促進することを目指していると書きました。イライラや怒り、あるいは不安や恐れ、罪悪感、羞恥心といったネガティブな感情体験も、ありのままに見つめて感じることで、ふりまわされたり、のみこまれたりしにくくなるでしょう。

最近、流行している「マインドフルネス」という言葉も、同じことを表しているのだと思います。

カウンセラーの態度としては、「受容、共感、自己一致」というカール・ロジャーズの三原則がよく取り上げられますが、日常の言葉では「心をこめて聴く」と言い換えることができるでしょう。

その反対は、「心ここにあらず」で聞き流すということになります。

「マインドフルネス」という語は「気づき」を意味するパーリ語に由来しているようです。

mindfulnessという英語をそのまま訳すと、「注意深く」とか「集中して」あるいは「心をこめて」という意味になります。

カウンセリングや心理療法の世界に「マインドフルネス」という考え方と瞑想の実践が導入されたのは、禅僧のティク・ナット・ハン(1)とジョン・カバットジンの影響が大きいと思われます。カバットジンは、禅の瞑想を現代的な「マインドフルネス・ストレス低減法」というプログラムに再編して、心身症やうつ病、摂食障害、パーソナリティ障害などの問題に適応しました。

マインドフルネスとは

カバットジン(2)にしたがって、マインドフルネスとは何かということを簡単にまとめてみます。

こう並べてみると、なんだかとても難しいことのように感じます。

こういうことは、頭で分かろうとするのではなく、実際に体験してみるしかないのかもしれません。気持ちや頭がせわしなくなったときにただ座る、ただ歩く、ただ呼吸をするということに意図的に注意を向けることがあります。カウンセラーとして、来談された方の話を聴くときも、価値判断を横に置いて、あまりがんばったり、期待や意図をもちすぎたりしないように、ありのままに耳を傾けようと心がけています(このあたり、カウンセリングと「猫の妙術」にも書きました)。

行為するモードと存在するモード

ル=グゥインの「ゲド戦記」で、魔法使いのゲドが、アレン王子にこんな話をしていました(3)。

若いころ、ゲドは「する人生」と「ある人生」のどちらかを選ばなければならなくなり、私たちの多くと同じように、「マスがハエに飛びつくように」、「する人生」に飛びついたのだと言います。

そして、ゲドはアレンにこう語りました。

「そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間がもてなくなる。ひとつの行動とつぎの行動の間の隙間のような、するということをやめて、ただ、あるという、それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間をね」

「存在するモード」あるいは「無為のモード」が、ゲドのいう「ある人生」だと言えるでしょう。

私も含めて、ほとんどの人は日常生活で何かを「する」ことにエネルギーを注いでいます。それこそ「マスがハエに飛びつくように」反射的に行動したり、怒ったり、笑ったりしているのです。

なにもしないでただ「ある」にとどまっていると、外からの刺激や自分の感情に対してマスのように反応するのではなく、「こういう考えがあるな」「おや、怒りが出てきた」と穏やかに観察することができるでしょう。

プレゼンス

晩年のロジャーズは、「ある(presence)」ということの大切さについて次のようなことを述べています。

私は、自分がグループのファシリテーターやセラピストとしてベストの状態にある時、そこに、これまで論じてきたのとは別の、もう一つの特質があることを発見しました。私が自らのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私が自らの未知なるものに触れている時、そして私が、クライエントとの関係において幾分か変性意識状態にある時、その時私がするどんなことでも癒しに満ちているように思えるのです。その時、ただ私がそこにいること(presence)がひとを解放し援助します(4)。

「ただ私がそこにいる」とは、直感的な自己に最も近づいていて、自らの未知なるものに触れているときなのだとロジャーズは言います。変性意識状態について言及しているのを見てもうかがえるように、この頃のロジャーズは、トランスパーソナルやスピリチュアルな領域に近づいているようです。なんとなく大魔法使いのゲドと同じようなことを言ってますね。

受容とあきらめ

マインドフルネスや瞑想法を、境界性パーソナリティ障害の心理療法に取り入れて弁証法的行動療法を開発したマーシャ・リネハンは「ラディカル・アクセプタンス」(徹底的な受容)という言葉を用いて、ネガティブな情動もありのままに受け入れるということを説明しました(5)。

イライラや怒りなどの否定的な感情を、なくそうとか減らそうとか、あるいはなんとか解決しようとするのではなく、「イライラしている」「怒りを感じている」と気づいて、穏やかに呼吸をして(ここが大切なんですって)、今・ここに戻ってくるのです。

「なんとか解決せねば!」「腹が立つから戦わないと!」という姿勢とは、ずいぶん違います。

日本語で言うと、「あきらめ」という言葉が近いのかもしれない、と思います。

「あきらめる」といっても、「どうせ自分には何もできないからしかたない」とひがんだり、すねたりするようなあきらめとは違うでしょう。

「あきらめる」とは、もともとは仏教用語で「諦観」と書いていたようで、「あきらかにみる」という意味でした。

とすると、「私は今、イライラしている」「怒りを感じている」「悲しみがある」とあきらかにして見つめるということにつながるんですね。森田療法でも、「あきらめる」という言葉がよく用いられます(「あるがまま」という言葉もよく出てきます)。

イライラしたり、腹が立ったときには、「今とってもイライラしているぞ」「マスがハエに飛びつくように反応していないかな」なんてつぶやいてみて、ひとつふたつ深い呼吸をして、できるだけ「存在するモード」にとどまれたらいいなと思っています。

 

【参考文献】

(1)ティク・ナット・ハン『怒り–心の炎の静め方』岡田直子訳、サンガ、2011年

(2)ジョン・カバットジン『マインドフルネス・ストレス低減法』春木豊訳、北王子書房、2007年

(3)アーシュラ・K. ル=グウィン『さいはての島-ゲド戦記3』清水真砂子訳、岩波書店、1977年

(4)マーシャ・M-リネハン『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法―DBTによるBPDの治療』 大野裕・阿佐美雅弘他訳、誠信書房、2007年

(5)カール・ロジャーズ「クライエント・センタード/パーソン・センタード・ア プローチ」『ロジャーズ選集(上)』伊東博・村山正治訳、誠信書房、2001年

 

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