カウンセリングと「猫の妙術」

佚斎樗山(いっさい ちょざん、1659-1741)という江戸時代の武士が書いた『天狗芸術論・猫の妙術』という本を読みました。今日はこの本から「猫の妙術」を取り上げてみます。

剣術の指南書なのですが、芸事は何にしてもどこか共通点があるものなので、カウンセリングにも示唆するところがあるかもしれないと思ったからです。

カウンセリングの科学とアート

「カウンセリングは芸事である」というと、異論のある方もおられるかもしれません。

臨床心理学にはもちろん科学(science)としての側面があるのは確かです。科学というからには、「こういう理屈で人の心は働いているのだから、このように介入すればかくかくしかじかの結果が得られる」といった法則が求められます。研究や実験の積み重ねで、たとえば強迫性障害には曝露反応妨害法が効果がある、トラウマやPTSDにはEMDRや持続的エクスポージャーがよさそうだ云々、といった知見が得られたわけです。そこでは「エビデンス(科学的根拠)に基づいている」ということが重視されます。

一方では、心理臨床やカウンセリングという実践は、アート(芸)という側面ももっています。科学が普遍性や再現性を重視するのに対して、こちらは事例ごとの個別性や一回性、あるいはカウンセラーとクライエントの関係性などに重きを置きます。

もうひとつ、「倫理」という側面を挙げることもできます。「医学は科学に倫理を加えたものだ。科学だけだと、患者を治さねばならないという発想はでてこない」といったことを以前、精神科医の中井久夫先生がお話されていました。臨床心理学も同じで、目の前のクライエントさんの幸福や健康を願うということが欠かせません。

ということは、心理臨床もまた、「科学」「アート」「倫理」の三つの視点からとらえることができそうです。

猫の妙術

歌川国芳『其のまま地口 猫飼好五十三疋』

歌川国芳『其のまま地口 猫飼好五十三疋』

『猫の妙術』の話でした。

こんなストーリーです。

勝軒(しょうけん)という剣術者の家に、とても大きなネズミが出たそうです。

飼い猫に獲らせようとしたのですが、返り討ちにあってしまいました。そこで、近隣からネズミ獲りに長けた猫たちを駆り集めて部屋に入れてみたのですが、大ネズミの迫力にどの猫もしり込みしてしまったのです。

勝軒自身も木刀を手にネズミを追いまわしたのですが、稲妻のように飛び回るネズミに危うく喰いつかれそうになるありさま。

「この先の家に無類のすぐれものといわれる猫がいると聞いた。その猫を借りてこい」と人を使いに出したところ、連れてこられたのは年老いた元気のない猫。

こんなのでだいじょうぶかなと思いつつもとりあえずネズミのいる部屋に入れてみると、猫はなんの構えもなくのろのろと歩いてネズミに近づき、そのままぱくりとくわえて出てきたのです。

その晩、ネズミに負けた猫たちが、この古猫を招いて、「お願いですから、あなた様の優れた術をお伝えください」と頼み込みました。

一匹の黒猫が進み出て「私は軽業早業が得意なんですが、今日のネズミは強すぎて不覚を取りました」と言いました。

古猫は次のように答えました。

「あなたはああすればこうすると技ばかり覚えて、道理を理解していないのです」

虎毛の大猫が「わたしは気持や気迫では負けてなかったつもりだったのですが…」と言ったところ、古猫は「自分の気持ちを頼りにしているだけでは道理にかなった気の働きではありません。勢いだけではなんともならないこともあるのです」といったことを話しました。

灰毛の少し年をとった猫が言いました。

「私は心の修練をしてきたので、争わず、和してよりそおうとしましたが、あのネズミにはかないませんでした」。

古猫の答えはこうです。

「あなたの和は自然の和ではなく、意図をもっているので、その気配を察知されるのです。

意図的に何かをしようとすると、自然の感覚がふさがれてしまいます。

思うこともなく、意図的に動くこともなく、ただその時の感覚にしたがって自然に動けば、敵となるものはありません」。

また、古猫は最後にこうも言いました。

「あなたたちが修練したことは無駄だったわけではありません。どれも、道理を含んでいます。

でも、たとえわずかでも思慮思念することがあれば、それは道にかなった本来の姿ではありません。

ですから、わたしはいかなる術も使わないのです」

カウンセリングの理論・技法と「今、ここ」で起こっていること

私たちカウンセラーもまた、さまざまな技法を修練し、理論を学びます。精神分析には精神分析の、ユング心理学にはユング心理学の、行動療法には行動療法の道理があって、それぞれ人間の心のある真理を伝えているのでしょう。

でもいったん面接室に入ってクライエントさんとひととき座る際には、理論や技法はそっと傍らに置いておく必要があります。

なぜなら、古猫が言うように「意図的に何かをしようとすると、自然の感覚がふさがれて」しまうからです。

「次はこんな技法を試してみよう」といったことをカウンセラーが考えすぎていると、たとえば目の前の人が笑顔で話しながらも手を爪が食い込むほど強く握りしめている、といったことが見えなくなるのです。

ときには「よくなってほしい」「こうなってくれたらいいのに」といった思いですら、「今、ここ」で起こっているプロセスを邪魔してしまうこともあるのです。

精神分析家のビオンが述べた「記憶なく、欲望なく、理解なく」という言葉も、同じような意味のことを伝えようとしているのかもしれません。

ビオンの言う「記憶・欲望・理解」とは、これまでの経験や記憶、治したいとかよくしたいという欲望、わかったつもり、わかってるといった奢りといったことを意味しているのでしょう。

過去や未来ではなく、今、ここにある未知なることを探求するのが精神分析である、といったことだったと思います。

また、フォーカシングやゲシュタルト療法といったアプローチも、技法というよりは、今、ここのプロセスにどれくらい触れることができるかという姿勢ととらえたほうがしっくりきます。

さて、『猫の妙術』の話にはもう少し続きがあります。古猫は最後に、自分よりも優れた猫がいると話すのです。

どんなに素晴らしい猫かと思いきや、それは「ネズミを捕ることも、ネズミの存在や、自分が猫であることさえも忘れてしまった」猫なんだそうです。弓の名人が最後には弓の存在も忘れてしまったという、中島敦の『名人伝』を思い出させる落ちですね。(久)

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名人にはほど遠いのですが、神戸/芦屋/西宮のあたりでカウンセリングをご検討のかたは、よろしければかささぎ心理相談室へおこしください。お待ちしております。尼崎大阪方面からも20分ちょっとの距離です。

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