変わること、選ぶことの苦しみを生きる――『ゲド戦記』より

最近、『ゲド戦記』を読み返しました。1巻から通して読むのは2回目で、1回目に読んだのは20代のころ。当時は、架空世界を舞台にした壮大なファンタジーの世界に引き込まれつつも、少し理が勝ちすぎているような印象もあって、のめりこむまではいきませんでした。今回、数十年を経てふたたびアースシーの世界に触れて感じたのは、やはり、とても思索的で哲学的な物語だということ。しかし「力」という魔に正面から向き合おうとする作者の真摯さに、20代のときには感じなかった感動をおぼえました。アメリカ人である作者のル=グウィンにとって、力をもつことの意味や、影の問題は、真に切実なテーマなのだと思います。

今回読み返して特にひかれたのは2巻の『こわれた腕輪』でした。ゲドはほとんど出てこず、主人公はテナーという10代の少女です。テナーは幼い頃、「名なき者たち」に仕える大巫女となるため、家族からひきはなされました。名前を奪われ、人々にかしずかれながら、墓所と呼ばれる神殿で孤独に暮らしています。墓所の地下には、暗黒の迷宮がひろがり、彼女だけが自由に行き来することを許されています。

テナーが仕える「名なき者たち」とは、闇と迷宮に象徴される存在で、王や魔法使いよりもはるかに古く、神や悪ですらない存在です。それは「いっさいのものごとの中心」であり、光と生命をきらう永遠不滅のものです。迷宮にしのびこんだゲドはテナーに、奪われた名前を返し、自分が生命を持つひとりの少女であることを思い出させます。テナーとゲドはいつしか信頼しあうようになり、2人は協力して迷宮を抜け、光と自由の世界へと向かいます。

しかし闇の精霊はそれを許しません。永遠不滅の闇は「変わること」を否定し、強い力でテナーを呼び戻そうとします。墓所の島を発つ朝、テナーは新しい世界に出ていくことへの不安と恐怖にさいなまれ、慣れ親しんだ暗闇から自分を誘い出したゲドに対し、激しい怒りを向けます。

【(わたしはやっぱり、今までどおり、あの主たちに仕えよう)と、テナーは思った。(主たちはわたしを裏切って見捨てたけれど、でも、最後にはきっと、わたしの手をとって導いてくれるにちがいない。この生け贄を受け入れてくれるにちがいない。)
テナーは、短剣を握った右手をうしろに隠し、ゲドの前に立ちはだかった。この時になって、ゲドは、ようやくゆっくりと顔をあげてテナーを見た。彼は遠いところから帰ってきたような、あるいは、何か恐ろしいものを目のあたりにしてきたような顔をしていた。落ち着いてはいたが、ひどくつらそうだった。が、テナーをしかと見つめ、その目に彼女の姿がしだいにはっきりととらえられていくにつれ、かげりは消え、ゲドの表情は明るくなっていった。
「テナー。」ゲドは、やっと、友にでも会ったように言うと、手をのばして、テナーの手首の銀の腕輪にさわった。そうやって、自分を勇気づけようとでもしているようだった。相手の手に握られている短剣には、目もくれなかった。】

ゲドはこのとき瞑想し、自分の内界とじっと向き合っていました。テナーの右手にある短剣よりも、もっと恐ろしいものと対峙していたのでしょうか。
やがて舟は島を離れ、海原へと漕ぎ出します。テナーはこらえきれず、海の上で泣きはじめます。

【テナーは両腕に顔をうずめて泣きだした。その頬が塩辛くぬれた。彼女は悪の奴隷となっていたずらに費やした歳月を悔やんで泣き、自由ゆえの苦しみに泣いた。
彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなく、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。坂道をのぼった先に光があることはわかっていても、重い荷を負った旅人は、ついにその坂道をのぼりきれずに終わるかもしれない。
ゲドはテナーを泣くにまかせて、慰めのことばはかけなかった。(…)彼は、まるでひとりきりでいるかのように、緊張した厳しい顔をたえず前方に向け、黙って、てきぱきとからだを動かしていた。】

 
ここで描かれているのは、いわゆる理解や共感ではありません。テナーはテナーの仕事をし、ゲドはゲドの仕事をしています。ゲドもまた彼を誘いこもうとする内なる闇を抱え、自由という重荷を背負い、厳しい道を歩む旅人の一人にすぎないのです。しかしそれぞれの旅路を歩むことを通じて、ふたりはつながっています。
カウンセリングのプロセスでも、クライエントが峠を越え、海原に出ていこうとするとき、似たような体験をすることがあります。理解や共感は、その峠に至るまでの大きな支えになります。しかしいざそのときには、手を貸すことはできないのです。そこまでの道のりを歩いてきたクライエントを信じて、「自分の仕事」をしながら、待つことしかできません。
この場面を読んで、これまで一緒に旅をしてきた方々のことが思い浮かびました。実際は、なかなかゲドのようにかっこよくは待てないのですが、一つひとつの局面でクライエントが自分らしい選択をできるよう、待つことのできるカウンセラーでありたいとあらためて思いました。 (A)

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アーシュラ・K. ル=グウィン著、, 清水 真砂子翻訳『こわれた腕環―ゲド戦記〈2〉』岩波少年文庫
全6巻セットも出ていますが、現在品切れのようです。通して読むなら、ソフトカバーの岩波少年文庫のシリーズが入手しやすいです。

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