大人の発達障害の相談・カウンセリング

大人の発達障害

この何年か、「大人の発達障害」と言われるような方々とお会いする機会が増えてきました。

仕事がうまくできない、人間関係でいつもつまづく、といったことから、「自分は発達障害ではないか」と考えたり、あるいは身近な人からそう指摘されて病院 を受診される方もいます。

インターネットで検索するとADHDやアスペルガーなど、いわゆる発達障害についてたくさんの解説やチェックリストなどが見つかります。

NHKで大人の発達障害について特集され たこともありました(“大人の発達障害 個性を生かせる職場とは?”)。

「大人の発達障害」が増えてきた背景には次のような理由がありそうです。

ひとつは、以前であれば他の名前で診断されていただろう人たちが発達障害とみなされるようになったという精神医学自体の変化です。私が単科の精神病院に心理士として勤め始めたのは20年くらい前になりますが、その当時は今でいう発達障害の人々は別の診断名で呼ばれていることが多かったと記憶しています(自閉症や知的障害の方はおられましたが、アスペルガーと診断されている人はほとんどいませんでした)。

もうひとつは発達障害という概念が一般にも広がってきたということが挙げられます。また、世の中が暮らしにくくなってきたので症状が顕在化しやすくなったということも要因として考えられます。何も、急に人間が変わったというわけではなさそうです。

親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

これは夏目漱石の『坊ちゃん』の冒頭の文章ですが、今の学校にいれば、あるいは坊ちゃんも、ADHDなどと言われたかもしれません。

落ち着きのない人、口下手な人、何かに没頭しすぎてしまう人、もともと人間にはいろんなタイプがいて、かつては多様なままにゆるやかに共存していたのだと思います。

近代になって社会はより複雑になってきて、そこに生きるわたしたちもより難しい課題解決やコミュニケーションが求められるようになりました。そのために、個人の個性としてとらえられていた凸凹が「障害」として問題になることもふえてきたのだと思うのです。

だとするなら、問題は個人ではなくて、むしろ社会のふところがせまくなってきたことにあるとも考えられます。

もちろん、それまでうまくいかずに悩んだり、責められたりしていた人たちに、適切な理解や援助が届くようになってきた、ということにはプラスの面もあるでしょう。

発達障害とは・それぞれの特徴について

発達障害とは、「注意欠陥・多動性障害(ADHD)」や「自閉症スペクトラム障害」、「学習障害」といったいくつかの障害の総称です。以下に、それぞれの症状や特徴を挙げてみます。

注意欠陥・多動性障害(ADHD)

ADHDの人たちには、多動でいつも落ち着きがない、注意散漫で気が散りやすい、思いつきで行動してしまう(衝動性)といった特徴が見られます。また、やらなくてはいけないことを先延ばしにしたり、忘れてしまうこともしばしばあります。対人関係においても不器用さが見られ、感情が不安定になることもあります。失敗を重ねたり、周りからの理解を得られないことで、自己評価が低く、マイナス思考に陥ることもよくあります。

自閉症スペクトラム障害(ASD)

対人関係のスキルや社会性に問題のある人たちは、アスペルガー症候群や広汎性発達障害といった名称でも呼ばれていましたが、近年、自閉症スペクトラム障害とまとめられるようになりました。

対人関係や社会性の未熟さが、自閉症スペクトラム障害の人々の大きな特徴です。ADHDの人と比べて、人と親しくなりたいという気持ち自体が弱く、一人でいる方が気楽に過ごせます。人の気持ちを汲み取ったり、雰囲気や空気を察してふるまうということがとても苦手なのです。

また、興味や関心をもつと、そのことばかりにこだわるという傾向もあります。自分なりのルールや決まりを大事にするので、関心事には根気強く集中して取り組むことができますが、他のことに注意を切り替えて柔軟に対処するのは苦手なことが多いようです。

学習障害(LD)

読み書き計算などのある特定の能力に困難をもつ人たちです。俳優のトム・クルーズが、学習障害を告白したことはよく知られています。

脳と神経系の発達

こうした一連の発達障害は、生まれもっての特徴として、あるいは乳幼児期の病気などによって、脳や神経系の発達が十分ではないために、社会性やコミュニケーション、認知、感情や行動のコントロールが未発達でアンバランスになるために起こると考えられています。

ADHD やLDとされる子どもの割合は6~12%、自閉症スペクトラムの人は1.5%程度いるので、けっして珍しいことではありません。

かならずしも勉強についていけないわけではなくて、中には優秀な子どももいます。学生時代は、「ちょっと変わった人」というくらいで大きな問題もなく過ごせていた人が、社会に出でから仕事や人間関係のトラブル、悩みを抱えることもしばしばあります。

大人の発達障害と不思議惑星

ずいぶん前に、おそらくはなんらかの発達障害があると思われるある人から、「好きな作品」として『不思議惑星キン・ザ・ザ』という映画を紹介してもらったことがあります。伝説的なB級カルト映画としてその筋の人々(?)には有名な作品のようです。DVDを借りて観てみたのですが、なんとも不思議なテイストの映画で、個人的には、とっても面白かったんです。

1986年のソビエト映画なのですが、2人の男がたいしたわけもなく突然テレポートでキン・ザ・ザ星雲の砂漠の惑星プリュクに飛ばされてしまうという無理矢理な始まりかたです。この星の人は、外見は地球人と似ていますが、テレパシーが使えるため通常の話し言葉は「クー」と「キュー」だけです。

この惑星では、なぜかマッチが貴重品として重宝されています。地球に帰る方法を求めて2人は旅をするのですが、惑星プリュク の奇妙なよく分からない風習に翻弄されて、右往左往します。

この星の人々が当然の前提としてとらえている風習や感覚が、さっぱりわからないし、何をどうコミュニケーションしているのかもつかめないので、とまどうしかないのです。

おそらく私たちも、言葉の通じない見知らぬ国に投げ込まれたら、同じような困惑を感じるのではないでしょうか。

この映画を紹介してくれた人にとっては、日本や地球こそが、惑星プリュクのような不思議惑星として体験されていたのかもしれない。

そんなことを思いながら、観た映画です。

ここで連想するのが、オリバー・サックスの『火星の人類学者』という本です。

タイトルにもなっている「火星の人類学者」とは、自閉症をもった動物学者であるテンプル・グランディンが自らについ て評した言葉です。彼女は、人間の社会的なルールや感情を読むことがとても困難だという特性をもっています。

だから、あたかも別の惑星に来た人類学者がそ うするであろうように、人々の行動や関わりを意識的に分析し、推論することでなんとか生活しているのです。

サックスはまた別の自閉症スペクトラムの夫妻の次のような言葉を挙げています。

「わたしたちは、転送装置で一緒に地上に降ろされたんです」

こういう言葉を聞くと、地球はやっぱり「不思議惑星」なのかもしれないと思うようになります。

あらためて考えてみると、発達障害がないと見なされているいわゆる「定型発達」の人は、ずいぶん不思議な慣習や風習のなかで生きているのではないでしょうか?

定型発達症候群

次の引用には、発達障害をもたない人たち――定型発達症候群と呼ばれています――だって、こんな特徴や偏りがあるじゃないかということが書かれています。

「定型発達症候群」(Neurotypical syndrome)は神経学的な障害であり、社会の問題に対する没頭、優越性への幻想、周囲との適合への固執という特徴をもつ 。定型発達者(NT)は、自分の経験する世界が唯一のものもしくは唯一正しいものであるとみなす傾向がある。NTはひとりでいることに困難をもつ。NTは、さして重要に思えないような他人の差異に対してしばしば非寛容である。NTは集団になると、社会性および行動にお いて硬直し、集団アイデンティティを保持する手段が機能不全で、破壊的になり、信じがたい儀式の遂行に執着することがよくある。NTは率直なコミュニケーションを苦手とし、自閉症スペクトラムの人と比べてうその出現率が高い。『アスペルガー流人間関係-14人それぞれの経験と工夫』

ちょっと皮肉が効いていますが、一人でいられず、周りとうまくやることや社会的なことに過度にこだわり、裏表があるのが「定型発達症候群」なのです。

並べてみると、確かにその通りだと思わされます。

たまには「自分の経験する世界」を相対化して眺めてみることだって大事ですよね。

 

 

発達障害とカウンセリング

上でも述べたように、発達障害とは生まれもってのその人の脳や神経系の凸凹によるものと考えられています。したがって、カウンセリングや心理療法で、発達障害が「治る」というものではないでしょう。これは、薬物療法でも同様です。

いや、風邪や腹痛が「治る」というときの治るとは違う、といったほうが正確かもしれません。

発達障害をもつ人が困難や悩みを感じるのは、職場や学校、家庭など、他の人たちと関わる場です。「障害」は、その人のなかにあるのではなく、周りの人や環境との「間」にあるのです。

周囲の環境や他者との関係が改善すれば、「障害」となっている困難はずいぶん楽になります。

自身の得意なこと、苦手なことをよく知って、適切なサポートを受けることで、発達障害の人たちのもつ生きづらさは改善されることがあります。グループや個別のカウンセリングで、「心理教育」や「ソーシャルスキルトレーニング」が行なわれることもあります。

でも、カウンセラーとして、いわゆる「発達障害」をもっている方々とお会いしていても、確かにこうしたコーチ的な関わりかたや、あるいは「通訳」のような役回りを担うことはあるのですが、本当に大切なことはもう少し違うところにあるんじゃないか、とも思うのです。

発達障害の人たちのなかには、子どものころから、「分かっていない」「そうじゃないのに」と責められたり、あるいは「教えられる」体験が重なったために、主体的に生きるという感覚がもちにくい方もたくさんいます。

他人の気持ちを汲んだり、自分自身を内省的に見るといったことが苦手なために、主体性という感覚が育ちにくかったとも考えられます。

でも、「他人の気持ちを汲む」とか「自分を見つめる」なんてことは、きっと、なんだかよく分からない他者とぶつかりながら、なんとかコミュニケーションしたり、分からないところを確認しあったりするなかから起こってくるようなことじゃないでしょうか。

「私ってこういう人間だ」といった実感もまた、他者とのかかわりから体験されることです。それは、かならずしも「うまくコミュニケーションできた」ことからだけ、起こってくることではないでしょう。むしろ、「分かり合えないこと」「通じないこと」「ズレたところ」などがはっきり見えたときに、「私」の輪郭が見えてくるです。

そんなふうにして見えてきた「私」に自己肯定感をもてて、その人なりの成長や発達が促進されていくこと、そしてその人なりの生き方を見つけていくこと、それが私たちの考えているカウンセリングの方向性です。

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