フィリフヨンカの不安とこの世のはて―『ムーミン谷の仲間たち』より

 不安に関連した悩みをもっている人は、少なくありません。不安というのは、なにか良くないことが起こるのではないかと想像することで、暗く落ちつかない、嫌な気持ちになることですね。失敗するんじゃないか、嫌われるんじゃないか、病気になるんじゃないか、大切な人を失うんじゃないか、などなど。そうした不安と折り合いをつけるヒントに…するには少し極端かもしれない話なのですが、久しぶりにムーミン谷の仲間にご登場いただこうと思います。ひょっとしたら、なにかのヒントになるかもしれません。

 このたびの主役は、フィリフヨンカさん。彼女は浜辺にたつ、大きいばかりであまりきれいでない家に、ひとりで暮らしています。天井は高く、窓はどうどうとして大きく、お気に入りのこまごまとした小物を飾っても、ちっとも居心地よくなりません。フィリフヨンカは、若いころこの家に住んでいたおばあさまの思い出に敬意をはらうため、特に気に入ったわけでもないのに、この大きな家に引っ越してきたのでした。

ご先祖をうやまい、昔からのしきたりや秩序を大切にするのは、フィリフヨンカ族の生きかたです。でもどうやら彼女は、それに少し縛られすぎて、「今」を楽しむことが難しくなっているようです。すてきな夏の朝、目の前には光にあふれた海が広がり、優しいそよ風が吹いているのに、彼女はなぜか深刻な顔をしています。フィリフヨンカの頭のなかには、おそろしい災難の予感が兆しているのです。「だまされてはだめよ。わたしゃ、世の中ってものを、よく知ってるんだから。大きな災難がくるまえには、いつだって、世界は、とってもおだやかなんだから」。

 午後には、近くに住むガフサ夫人がたずねてくる約束があります。フィリフヨンカは「あんな人とおしゃべりしても、ちっとも楽しくない」とぶつくさ言いながら、お気に入りの小物を念入りに飾りつけ、とっておきのティーセットを揃えて、そわそわと夫人を迎えます。ほんとうは、友だちがたずねてきてくれることがうれしくてしょうがないのです。それなのに体裁ばかりを気にして、うわすべりのちぐはぐなおしゃべりを続けるフィリフヨンカ。ガフサ夫人と心のこもった会話をしたいのに、それができないフィリフヨンカは、ついに、「なにかおそろしく、無慈悲なものが、やってくるのを感じたことはあって?」と不吉なおしゃべりを始めてしまいます。ガフサ夫人はフィリフヨンカの不安にはとりあわず、せっかくのお茶会は、おかしな雰囲気になっておひらきになりました。

 ここからがすごいところです。昼間あんなにいいお天気だったのに、夜になるとほんとうに嵐がやってくるのです! あたりが暗くなるにつれ風が強まり、海のほうからぐんぐんと嵐が押しよせてきます。しかしフィリフヨンカは、外にだしっぱなしのものをしまうこともせず、ただただ布団にくるまって、自分に向かって突進してくる大きな竜を思い描くだけです。この期に及んで、フィリフヨンカはまだ目の前の現実ではなく、頭のなかの不安を見つめているのですね。

 夜半を過ぎると、嵐はますます激しくなってきます。ついにえんとつが吹き倒され、天井に大きな穴があいてしまいました。家のなかに入り込んできた嵐は、フィリフヨンカのもちものというもちものを、床や壁に叩きつけ、家のなかはすさまじいありさまになってきました。ついに、さすがのフィリフヨンカも、なにかを考えるより先にからだが動いて、家の外に飛び出しました。絶望的な気分でそうしたフィリフヨンカでしたが、外に出てしまえば、自分をおそってくるのはなまあたたかい雨粒と風だけであることに気づきます。

たえずなにかが倒れたり砕けたりしている大きな家に背を向けて、ゆっくりとまわりながら闇を照らしている灯台の灯りをみながら、フィリフヨンカは浜辺のほうへ歩いていきます。岩陰で風雨をしのぎながら、自分が安全で、なんともいえず気持ちがいいのを感じながら、夜明けを待ちました。

――ここで終わってもいい話なのですが、トーベ・ヤンソンのつくりだす物語は、なんというか、容赦がありません。フィリフヨンカの解放には、これではまだ足りないようです。明け方になり嵐が去ったあと、空にはまだ不穏な気配が残っています。フィリフヨンカは家のなかの、こわれたり汚れたりしたものをどうしたらいいか、考えあぐねています。修理や掃除についやす時間や手間もたいへんなものですが、すべてを元通りにしたら、もう一度びくびくして暮らすことになるでしょう。それでも、フィリフヨンカ族の義務として、相続した品物をほったらかしにすることは、やはりできないと考えます。そこに、白く光る大たつまきがやってくるのです。たつまきはゆっくりと大きな家に近づき、静かに屋根をもちあげ、彼女の家具や、こまごまとしたお気に入りの小物を、ひとつのこらず吸い込んで、野原の向こうに消えていきました。

「まあ、なんてなんて、ふしぎなんでしょう! 大自然の大きな力にたいしては、かわいそうに、小さいフィリフヨンカに、いったいなにができるでしょう。まだ、なにかつくろったり修理したりするものが、あるかしら。なんにもありません。みんな、きれいさっぱりと、あらいながされてしまったのだわ!」

 フィリフヨンカは、今こそ自分がすっかり自由になったことを知りました。彼女は海にとびこみ、昨日の朝せっせと洗ったじゅうたんで、波乗りを始めます。きゃあきゃあいったり、笑ったり、踊ったり。うまれてこのかた、こんなにおもしろかったことはありません。そこへ、ガフサ夫人がやってきました。心からフィリフヨンカを気づかって、駆けつけてくれたのでした。

 不安になりやすい人にとって、災難とは、そのものよりも、それを待っているときの苦痛のほうが、大きかったりするものです。現実的な人は、「怯えているひまがあったら、できることを準備すればいい」と言いますが、不安というのは、かたちがなく曖昧なものなので、準備をすることが難しいのです。実際にその災難がやってくるまで、どうしたって不安は消えません。解決はなく、慣れるしかないのです。でもフィリフヨンカの抱える不安は、慣れることも難しいほど、大きくふくれあがっていました。だから彼女は、嵐にあうことを必要としていたのです。嵐の到来を、こころの奥底では求めていたのです。

 ではおそれていたものに出あえば、人はすっかり変わり、不安から自由になれるのでしょうか。そう簡単ではないことを、ヤンソンは熟知しています。嵐でめちゃくちゃになったあとも、古いフィリフヨンカのもちものは、彼女をほっておいてくれません。大切な気づきを得ても、また習慣という枷(かせ)にとらわれてしまうのが、世の常です。フィリフヨンカを完全に解き放ってくれたのは、嵐のあとにやってきた大たつまきでした。そうぞうしい嵐の場面とはちがって、白く輝く大たつまきは、どこか夢のなかのできごとのような、神秘的で非現実的な描かれ方をしています。まるで、空からにゅっと神さまが顔を出したかのようです。こういう人智をこえたものに出あいでもしなければ、あるいは死に等しいような体験をしなければ、人がすっかり変わることはないのでしょうね。

 でも、がっかりすることはありません。大たつまきがこなくても、フィリフヨンカは嵐の夜に、すでにいくつかの新しいことを体験しています。そのひとつが夜の浜辺を歩くこと。「わたし、これまでに一度も、夜中に外へ出たことはなかったんだわ。もし、ママがこのことを知ったら…」。フィリフヨンカは、お母さんのいいつけを守って、浜辺どころか夜中に外に出たこともなかったのですね!

 こわれた家を修理して、また前のように暮らすようになったのだとしても、嵐の夜を経験したフィリフヨンカは、ときどき夜の浜辺を歩いて、灯台のあかりを眺めたり、潮のかおりをかいだりするようになったのではないでしょうか。その瞬間には、フィリフヨンカの不安も少しおとなしくなっているはずです。少し勇気をだして、自分の考えや思い込みから「外」にとびだしてみることができれば、誰だって、自分の考えの外にあるなにかに出あえるはずです。そしてその新しいなにかは、古い習慣ととけあい、毎日の暮らしをやわらかく変えていくでしょう。

 すべてを失ったあと、海で波乗りをしてはしゃぐフィリフヨンカは、まるであの世とこの世のあわいで、遊びたわむれているかのようです。トーベ・ヤンソンはフィリフヨンカをこの世のはてまでつれていきましたが、その手前の、浜辺を歩くような静かな物語のなかにも、小さな「この世のおわり」をみつけることはできるのではないでしょうか。(A)

出典:ヤンソン、山室静訳「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」:『ムーミン谷の仲間たち』講談社文庫

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