悲しみをおさめる器

新美南吉の「デンデンムシノ カナシミ」という童話をご存知でしょうか。
美智子皇后がスピーチでとりあげたことで、一時期話題になりました。

すでに著作権が切れていて、しかもみじかいお話なので、あらすじではなく全文を書き写します。(原文は旧カタカナ表記ですが、現代がな表記に改め、文節の区切りを一部よみやすくしました)

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でんでんむしの かなしみ    新美南吉

いっぴきの でんでんむしが ありました。
あるひ そのでんでんむしは たいへんなことに きがつきました。
「わたしは いままでうっかりしていたけれど、わたしの せなかのからのなかには かなしみが いっぱいつまっているではないか」

このかなしみは どうしたらよいでしょう。
でんでんむしは おともだちのでんでんむしのところに やっていきました。
「わたしは もういきていられません」と そのでんでんむしは おともだちにいいました。
「なんですか」と おともだちのでんでんむしは ききました。
「わたしは なんという ふしあわせなものでしょう。わたしの せなかのからのなかには かなしみが いっぱいつまっているのです」と はじめのでんでんむしが はなしました。

すると おともだちのでんでんむしは いいました。
「あなたばかりでは ありません。わたしのせなかにも かなしみは いっぱいです」

それじゃしかたない とおもって、はじめのでんでんむしは、べつのおともだちのところへ いきました。
すると そのおともだちも いいました。
「あなたばかりじゃ ありません。わたしのせなかにも かなしみは いっぱいです」

そこで、はじめのでんでんむしは またべつのおともだちのところへ いきました。
こうして、おともだちを じゅんじゅんにたずねていきましたが、どのともだちも おなじことを いうのでありました。
とうとう はじめのでんでんむしは きがつきました。
「かなしみは だれでも もっているのだ。わたしばかりでは ないのだ。 わたしは わたしのかんしみを こらえていかなきゃならない」
そして このでんでんむしはもう なげくのをやめたのであります。

 

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しんみりとした味わいのある童話ですね。
子どものためのお話にしては夢も希望もないようですが、この物語は、主人公のでんでんむしが「かなしみ」をおさめるための器を見出す物語です。それもひとつの心の成長ではないでしょうか。

さいしょ、でんでんむしは「かなしみ」という感情をどう扱えばいいかわかりませんでした。自分は「ふしあわせ」で、もう生きていかれないと考えてしまいます。
でも友だちを訪ね歩くうちに、悲しみとは、それを背負いながらでも歩いていける感情であることを学んでいきます。

今の時代は明るさや楽しさ、前向き思考が好まれています。そのせいか、悲しみや寂しさなどの感情をどう扱っていいかわからず、持っていてはいけないものだと考えて、排除しようとする人が少なくないように思います。
少し前の日本には、悲しみを愛でたり親しんだりするような物語が、あふれていました。現代の私たちも、こうした物語に親しむことで、ある日自分の背中に「かなしみ」がいっぱいつまっていることに気づいたときに、あわてずにすむかもしれません。

かなしみをなげすてようとするのではなく、そっと親しむということ。
悲しみを背負いながらも、そろりそろり、歩いていくこと。

ところでこのでんでんむしのお話、現代なら、「それはうつ病かもしれません。お医者さんに相談しましょう」なんていう啓発ものにされてしまうかも。
もちろんそれも必要なことですが、残念ながら、味わいのある童話にはなりそうにありませんね。(A)

 

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