桃始めて笑う、春のしらべ

共感覚と季節の変化

少しずつ暖かくなってきました。

日本には春夏秋冬の四季に加えて、二四の気、七十二の候という季節があるといいます。
七十二候の本をめくっていたら、今頃の季節は「啓蟄」(けいちつ)という、土の中に眠っていた虫たちが春の陽気に誘われてもぞもぞ動き出す時期。
候は「桃始めて笑う」だそうです。
花が咲くことを、昔は「笑う」と言っていたんですね。

そう言われてみると不思議なもので、あらためて咲き始めの花を眺めてみると笑っているような気がしなくもない。
個人的には、小中学生くらいの女の子たちがきゃらきゃら笑い合っているような場面が浮かんできます。

心理学に「共感覚」(synesthesia)という概念があります。
文字に色を感じる、形に味を感じるといったような、通常とは異なった種類の感覚が生まれるようなことを指しています。
そういえば、発達障害をもった人の中には「明朝体は尖ってて痛いから読みにくい」という方もいると聞いたことがありますが、これも共感覚といえます。
でもそれは何も特殊なことではなくて、かつての日本人が花を見て笑い声を感じたように、もともとヒトがもっている豊かな感受性でもあるのだと思います。

春という季節は、虫が出てきたり花が咲いたり鳥が鳴いたりといろいろな変化に気がつく時期です。
自分の中に起こってくる小さな変化にも気がつきやすいのかもしれません。

春のしらべ

そういえば、『ムーミン』にも「春のしらべ」という作品があったのを思い出しました。
旅をしているスナフキンがムーミンに贈るために「春のしらべ」という曲を作曲する話です。
もう少しで曲ができそうというときに、スナフキンはおずおずとひどくおびえた目をしている「はい虫」に気がつきます。
はい虫に出会ってしまったことでスナフキンの頭にあった音楽は消えてしまいました。
スナフキンははい虫を邪険に追いやろうとしますが、「名無しのぼくに名前をつけて」と頼み込んでくるはい虫にうんざりしながらも、ティティ=ウーという名前を提案します。
はい虫のをティティ=ウーを置いて旅を続けるスナフキンですが、自分が彼に言ってしまった酷いことが頭から離れず、ついに向きを変えて来た道を戻ります。

戻ってみると、はい虫はティティ=ウーという名前の標札を作り、新しく自分の家を建てようとしていました。
ティティ=ウーはスナフキンにこんなことを言います。

「ぼくは、ぼくなのさ。だから、出来事はすべて、なにかの意味を持つんです。だって、それはただ起こるんじゃなくて、ぼく、ティティ=ウーに起こるんですからね」

昨日のおずおずとしたはい虫ではなく自由で自信に満ちたティティ=ウーに再会したスナフキンは、「春のしらべ」を思い出します。

フォーカシングと気づき

この話を読んで、なんとなく「フォーカシング」のプロセスに似ているなと連想しました。
フォーカシングというのは、ジェンドリンという心理学者/哲学者が発見した心の実感に触れるための方法です。ジェンドリンによれば、人間が新しいことに気づき、変化するためには自分の心の実感に触れることが必要なのです。
その実感(フェルトセンスと呼ばれています)は、最初はこのお話のはい虫のように名前もなくおずおずとした小さい感覚です。もしかするとそれは「なんとなく嫌な感じ」ということもあるかもしれません。スナフキンがはい虫に邪険にしたように、忙しさにかまけて無視してしまうことだってできます。けれどもはっきりとしたことだけに意識が向けられていると、体験の流れがとどこおってしまって新しいものは何も生まれてきません。スナフキンが「春のしらべ」を失ってしまったのもまさにそんな状態だったのでしょう。ティティ=ウーのことがどうしても気になったスナフキンは、もう一度その気がかりという心の実感に触れようとします。そうすることで、失われていた「春のしらべ」という気づきが生まれたのではないでしょうか。(久)

 

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YouTubeでこの話を見つけたので、ちょっと貼っておきますねー。この記事、2013年に書いたんでした(3月15日)。10年前、何してたかな。秋だけど、春の小話を再アップします。

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